共和制
1888年奴隷制度廃止、帝政終わる
奴隷制の廃止は、君主制の崩壊が最も直接的な要因という指摘が多いようです。皇帝がヨーロッパに帰っている間、娘のイザベル王女が摂政の役割を果たしていました。1888年5月13日、労働システムとしての奴隷制が実質的に崩壊していること、また、奴隷解放を要求する世論の声がますます強くなってきたことにより、王女はついに「黄金の法律(Lei Áurea)」と呼ばれる、ブラジルの奴隷制の廃止をうたった法律に署名しました。19世紀末には、移民によって安い労働力が得られたため、ブラジルの奴隷制は既に崩壊の危機に瀕していました。この「黄金の法律」の執行は奴隷所有者である地主階級を没落、離反させ、君主制の政治基盤を急速に揺るがすことにつながりました。議会危機の数ヶ月後の1889年11月15日、君主制の廃止と共和制の設立を唱えた軍の革命により、皇帝は退位を迫られました。この体制の変革は、流血を見ずに行われました。皇帝と皇室は、最大の尊敬を集めていましたが、ブラジルを離れることを余儀なくされ、幾人かの側近を伴い、フランスに亡命しました。
当時の国の指導者達は、新体制である共和制に賛同し、協力しました。そのひとりが最も卓越した政治家のリオ・ブランコ男爵でした。彼の知恵と外交手腕により、ブラジルは主な国境紛争の大半を協定や調停を通じて解決したのでした。
● 連邦制と大統領制
新生共和国ブラジルは連邦制を採用しましたが、その基本的性格は現在も維持されています。連邦制の下、帝政時代の地域区分は州に置き換えられました。議会制は大統領制に代わり、上院、下院の二院制が制定されると同時に、完全に独立した最高裁判所が設立されました。また、州レベルでも中央政府と同様の政治基盤が置かれました。1930年までは、どの大統領も憲法にのっとった選挙により選ばれました。
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第二次大戦後のブラジル
● 近代ブラジル
ヨーロッパでの戦争が終結し、ヴァルガス大統領は退陣を迫られ、後継者をめぐる選挙が行われました。15年ぶりの選挙で、戦時中ヴァルガス政権の陸軍大臣であったエウリコ・ガスパル・ドゥトラ将軍が過半数の支持を得て当選しました。1946年には憲法制定議会により新しい民主憲法が承認され、1967年までその効力は続きました。ドゥトラ政権は1951年まで続きましたが、その間、リオ・グランデ・ド・スール州の牧場に身を寄せていたヴァルガス氏は次期選挙に向けて準備をしていました。彼の政権時に打ち出した進歩的な社会福祉政策や貿易統合政策が、この時期になってようやく実を結び、ヴァルガス氏は選挙で大統領に返り咲くことができました。しかし、1954年激しい政治抗争に追いつめられ、ピストル自殺しました。彼の残務期間は暫定政府が引き継ぎました。
1956年から1961年までの5年間は、ジュセリーノ・クビチェック大統領の下、経済は拡大し続けました。同大統領は、新首都ブラジリアの設立者でもあります。彼の次にはジャニオ・クアドロス大統領が続きましたが、1年足らずで辞任しました。クアドロス政権の副大統領ジョン・グラール氏は、国会が議院内閣制を採択し、大統領の権限が制限された後に、ようやく大統領として承認されましたが、4ヵ月後の国民投票において、大統領の権限を全面的に回復することに成功しました。しかし、インフレの急騰や左派と右派の政治的対立により、2年半にわたる政情不安や社会的混乱、経済危機が生じました。その後、グラール大統領は極左派と結びつき、それを懸念した軍隊による1964年3月31日のクーデターにより、グラール政権は倒れました。
約20年間、軍政が続く
● 1964年革命 1964年から1985年にかけては軍政が敷かれましたが、1979年以降、軍の政治的圧力は徐々に弱まっていきました。この期間に大統領になった5人は全て軍出身でした。反共産主義のうねりの中、政権に就いた初代大統領カステロ・ブランコ氏は、政治と経済を安定させるため、政府の権限と体制強化を目的として、広範な憲法改正を行いました。次期政権以降の15年間、すなわち1968年から1983年までには、いくつかの軍政令(事実上の大統領令)が打ち出されました。これらにより、個人と集団の多くの権利が奪われ、団体交渉は排除され、ストライキは違法となり、労働運動は制限されました。
1968年、アルトゥール・ダ・コスタ・イ・シルバ大統領の下、経済政策はようやく機能し始め、インフレの抑制や、政権の安定を背景とした外国企業の投資再開などが実現しました。しかし、政情は引き続き不安定であり、政府はますます威圧的になっていきました。コスタ・イ・シルバ大統領は1969年に病気のため辞任し、2ヶ月の臨時政権の後、エミリオ・ガラスタズ・メジシ大統領に引き継がれました。1967年から1974年までは、ブラジルは世界でも高い経済成長を成し遂げ、GDP(国内総生産)の実質成長率は1973年時点で14%にも達しました。1970年代半ばには、当時のエルネスト・ガイゼル大統領が民主体制への漸進的復帰に向けての「政治的圧力の緩和」を約束しました。1979年に就任したジョアン・バチスタ・フィゲイレード大統領も「政治公開(Abertura)」路線を推進し、廃止されていた様々な政治的権利の回復に努め、国外追放となっていた多くの人に特赦を与えました。この年はまた、再民主化に対する国民の要望が高まった年でもありました。フィゲイレード大統領の下、開かれた政治路線は着実に進められ、1982年には州知事の直接選挙が17年ぶりに再開されました。
● 再民主化(1985-1989) 1984年、新大統領の選出について、「直接選挙」を求める声が全国規模で高まりました。1985年1月、タンクレード・デ・アルメイダ・ネーヴェス候補が国会議員を中心とする間接選挙で大統領に選ばれました。このことは、21年振りに民間出身の大統領が選出されたこと、また連立野党の候補が選挙に勝ったことは大変意義深いものでした。しかし、ネーヴェス候補は1985年3月14日の大統領就任式前夜、数ヶ月わずらっていた病気のため急きょ病院に担ぎ込まれました。副大統領ジョゼ・サルネイ氏が大統領代行となり、5週間後ネーヴェス氏が死去した後、そのまま大統領に就任しました。就任に当たっては、ネーヴェス路線を維持することを誓いました。サルネイ政権の最優先事項は、新憲法を立案する議会召集のための総選挙を行うことでした。憲法の立案にこれだけ多くの市民の参加が見られたのはブラジル史上初めてのことです。18ヶ月の審議の後、1988年10月15日、新憲法が発布されました。
● 選任された大統領の辞任(1989-1992) 1960年以降初めて行われた直接選挙により、フェルナンド・コロール・デ・メロ氏が1989年11月、大統領に選任されました。しかし、1992年9月29日、コロール政権内の汚職疑惑により、上院が弾劾裁判を行い、大統領職を永久に剥奪するかどうか決定する間、同大統領は180日間の職務停止を下院より命じられました。1992年12月29日、上院が同大統領の汚職嫌疑の審議を開始した数分後、コロール大統領は辞任しましたが、上院は彼を告発することを可決しました。3時間後、副大統領イタマール・フランコ氏がコロール氏の2年間の残務期間まで大統領職に就くことになりました。
● 最も長い大統領の任期(1995-2002)
1994年10月13日、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領は過半数の得票率(53%)で1995-98年の任期の大統領に選出されました。当選した大統領は前政権中に始まった経済安定化プログラム「レアル・プラン」を維持するという断固たる決意をもって就任しました。カルドーゾ大統領は任期中、経済の自由化を進め、国営事業の大幅な民営化を実行し、ブラジル国民の平均所得は伸びました。
再選可能を規定した1988年憲法に基づき、カルドーゾ大統領は1998年11月、更に4年間の任期に向けて再選されました。この任期中、彼は国家と経済の改革を続行し、引き続き開発を進めるためのより良い条件を創り出しました。
● 2002年のルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シウヴァ大統領の選出
2002年11月6日に有効票数の61.27%(5270万票)を獲得してルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シウヴァとジョゼ・アレンカルが各々ブラジルの大統領と副大統領に当選し、2003年1月1日に就任した。前任者の通貨政策、特に経済の安定性に関する部分の概略を踏襲したルラ大統領は政府の社会政策に重点を置き、2006年11月に再選され、2010年に任期を終了する。
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