旅行家、独学家、ラジオ・パーソナリティー、新聞販売少年、新聞記者、作家等々。サンパウロ州カザブランカ市出身のバヘット監督(1906〜1982年)はブラジル映画界の最も魅力的な人物の一人である。ジョゼ・デゥ・ピキア(Jose Del Picchia)監督の三脚持ちとして映画界に入った。借り物のキマノ(Kimano)カメラとわずか25メートルのフィルムを手にした彼は、実践を通じてドキュメンタリー映画制作を学んだ。ポルティナリ(Portinari)画伯の作品を取り扱った1950年のドキュメンタリー映画パイネウ(Painel)、さらにはミナスジェライス州コンゴニャスドカンポ(Congonhas do Campo)市に今も残る彫刻家アレイジャディニョ(Aleijadinho)の「預言者」像を題材にした同じジャンルの作品によって批評家に高く評価され、ヴェラ・クルス映画社の長編を担当する道が開かれた。しかし、同社では、1951年のテーハ・エー・センプレ・テーハ(Terra e Sermpre Terra)、1952年のチコチコ・ノ・フバー(Tico-Tico no Fuba)等の作品で当初は俳優として活動した。
彼自身が担当した原作に基づく長編「オ・カンガセイロ」により、バヘット監督は「ブラジル版西部劇」と云う一つの映画ジャンルを作り出しただけではなく、ブラジル北東部でかつて活動したカンガセイロと呼ばれる盗賊たちを主題とした一連の作品の時代を切り開き、海外市場にブラジル映画を紹介する役割を果たした。気まぐれで気難しい彼は、もう一本の長編「最初のミサ(A Primeira Missa)」を作り出すのに8年の歳月を要し、最も意欲的な計画だった「ラグナ撤退作戦(A Retirada da Laguna)」を実現することなく死んだ。彼の脚本をもとに、1970年にアンセウモ ドゥアルテ(Anselmo Duarte)監督が「ケレー・ド・パジェウー(Quele do Pajeu)」、1983年にヴァウテル・リマ・ジュニオル(Walter Lima Jr.)監督が「イノセンシア(Inocencia)」を各々撮っている。
グラウベル・ホシャ(Glauber Rocha) 監督 代表作:神、悪魔、太陽の国 (Deus e o Diabo na Terra do Sol) ・1963年
ブラジルでもっとも有名で、重要で、論争の的で、影響の強い映画人。1939年にバイア州ヴィトリアダコンキスタ(Vitoria da Conquista)市で生まれ、九歳のときに州都サウヴァォル(Salvador)市に移住し、三十二歳まで同地に住んだ。十六歳でグルポ・ジョグラレスカス・デ・テアトリザサンゥ・ポエティカ(Grupo Jogralescas de Teatrilizacao Poetica)劇団に入る。十七歳の頃、最初の映画評論をジョルナウ・ダ・バイア(Jornal da Bahia)紙に発表、その後リオデジャネイロの各紙(ディアリオ・デ・ノティシアスDiario de Noticias、ジョルナウ・ド・ブラジル(Jornal do Brasil)にも活動の場を広げた。最初の短編、「オ・パティオ(O Patio)」は1959年に制作した。1961年にホベルト・ピレス(Roberto Pires)監督の「ア・グランディ・フェイラ(A Grande Feira)」のプロデューサーを務めた後、同じ年に「バハヴェント(Barravento)」では同じ役割に加えてルイス・パウリノ・ドス・サントス(Luiz Paulino dos Santos)に代わって監督を務めた。独創性に富み、常に論争の的であった彼は、1962年にリオデジャネイロに移住してから「シネマ・ノヴォ(Cinema Novo)の世界の話題の中心となった。
最初から最後まで完全に彼が手掛けたはじめての作品、「神、悪魔、太陽の国(Deus e o Diabo na Terra do Sol)」はブラジル映画界でかつて見たことの無かった才能の発現ともてはやされた。次作となった「テーハ・エン・トランゼ(Terra em Transe)」は、閉鎖的だと当初は一部から批判されたが、最終的には当時のもっとも優れた政治映画の一つとして国際的な評価を確立するに至った。「オ・ドラガンゥ・ダ・マウダデ・コントラ・オ・サント・ゲヘイロ(O Dragao da Maldade Contra o Santo Guerreiro)」は海外市場で同等の評価を得た(なお、この作品は海外では「アントニオ・ダス・モルティス(Antonio das Mortes) 、1968年」のタイトルで紹介された)。この時点でグラウベル・ホシャ(Glauber Rocha)監督はブラジルに於ける制作活動の第一期を終了し、その後は1970年代の終わりまでヨーロッパやキューバで生活した。ヨーロッパで資金調達して「カンセル(Cancer)1968〜1972年)」、「オ・レアンゥ・デ・セテ・カベサス(O Leao de Sete Cabecas)、1969年にアフリカで撮影」、「カベサス・コルタダス(Cabecas Cortadas)、1970年にスペインで撮影」、「クラロ(Claro)1975年イタリアで撮影)の4作を撮った。1972年から1974年にかけて、マルコス・メデイロス(Marcos Medeiros)と「イストリア・ド・ブラズィウ(Historia do Brazyl)」を共同制作した。最終作となった「ア・イダヂ・ダ・テーハ(A Idade da Terra)」は1978年から1980年にかけて苦労の末に作り上げた、ブラジルの実情に関する混沌とした作品だが、世界中の観客は批評家を落胆させる結果となった。グラウベルは1981年8月にリスボンで客死した。
ブルノ・バヘト(Bruno Barreto)監督 代表作:フロル婦人と二人の夫(Dona Flor e Seus Dois Maridos)・1976年
国内で最も早熟な映画人である。ブラジル映画史上で最大のヒットの一つ、文豪ジョルジェ・アマド(Jorge Amado)原作の同名の小説に基づいた「フロル婦人と二人の夫(Dona Flor e Seus Dois Maridos)」(1976年)を撮ったとき、若干二十一歳だった。それに先立ち、1972年の「少女タティ(Tati, A Garota)」と1974年の「ア・エストレラ・ソベ(A Estrela Sobe)」の二本の長編を既に撮っている。これらは各々アニバウ・マシャド(Anibal Machado)とマルケス・ヘベロ(Marques Rebelo)の文学作品に同じく基づいている。シネマ・ノヴォ(Cinema Novo)の最も活動的で最も重要な映画人ルイス・カルロス・バヘト(Luiz Carlos Barreto)の息子をして生まれたブルノ(Bruno)は幼少の頃よりカメラに馴染んだ。
満十歳になるかならない頃、生涯に撮った四本の短編のうち、最初の一本を制作し、映画のノウハウを磨いた。レオポウド・セハン(Leopoldo Serran)が書き下ろした脚本をもとに1978年に「アモル・バンディド(Amor Bandido))を撮った後、1982年には再びジョルジェ・アマド(Jorge Amado)の原作を題材として「ガブリエラ・クラヴォ・イ・カネラ(Gabriela Cravo e Canela)」を撮った。また、1980年にはネウソン・ホドリゲス(Nelson Rodrigues)の「アスファルト・キス(Beijo no Alfalto)」をリメイクした。八十年代の締めくくりとして、都市型のドラマを二本、1984年の「情熱の彼方(Alem da Paixao)」、1987年の「メイドさんの恋愛(O Romance da Empregada)」を作り上げた。その後、ハリウッドに移住したが、目立った活躍は見られなかった。1996年にブラジルに戻り、小説家フェルナンド・ガベイラ(Fernando Gabeira)の原作「それは無いよ君(O Que E Isso, Companheiro)」を映画化した。
多くの人々にとって、ブラジル映画界の生み出した最初と天才であり、さらには最もユニークかつ大胆な作家でもある。1910年にリオデジャネイロで生まれ、青年期の一部をロンドンとパリで過ごしてヨーロッパの前衛芸術、ソビエトの革命映画、ドイツの表現主義に触れた。詩人、小説家、唯一の作品である「限界(Limite)」を生み出した映画人として、マリオ・ペイショト(Mario Peixoto)監督は一生の大部分をリオデジャネイロ州南部のアングラドスヘイス(Angra dos Reis)で過ごした。1970年代に修復されるまで、「限界(Limite)」は公開される機会が少なかったにも係わらず海外を含めて高い評価を獲得し、ソ連のアイゼンシュタイン(Eisenstein)監督に賞賛された。1930年に最初に上映されて以来、「限界(Limite)」は神秘的、呪われた、閉鎖的な、荘厳等の評価を得た。ペイショト(Peixoto)監督は1931年に「地の果て(Onde a Terra Acaba)」、「潮(Mare)」の二つの未完成の映画を残し、1950年には匿名ながらジョナウ(Jonald)の「明けの明星(Estrela da Manha)」に協力した。1950年代には「ア・アウマ・セグンド・サルストレ(A Alma SegundoSalustre)」を企画したが、実現に至らなかった。その脚本は1983年に出版された。ペイショト(Peixoto)監督は1991年に他界した。
エクトル・バベンコ(Hector Babenco)監督 代表作:チビ、弱者の掟(Pixote, a Lei do Mais Fraco)・1980年
ブラジルに移住したアルゼンチン人のうち、エクトル・バベンコ(Hector Babenco)監督(1946年ブエノスアイレス市出身)は、唯一人幅広い国際的な反響を得るに至った。三年間にわたってヨーロッパで映画活動を展開した後、1960年代の終わり頃にサンパウロ市に拠点をおいてドキュメンタリーの作成に携わった。そのうちの一本、1973年の「偉大なるフィティパウディ(O Fabuloso Fittipaldi)」は自動車F-1レースの英雄エメルソン・フィティパウディーを取り扱ったものであり、フィクション映画への扉を開いた。
1975年の「夜の帝王(O Rei da Noite)」で見せた映画としての芸術的な仕上げとサンパウロ市の暗黒街の苦い断面描写は彼を同世代のホープに祭り上げた。1977年の「ルシオ・フラヴィオ(Lucio Flavio)」や「オ・パサジェイロ・ダ・アゴニア(O Passageiro da Agonia)」、1980年の「チビ、弱者の掟(Pixote, a Lei do Mais Fraco)」により、彼は周囲の期待感に見事に応えた。この後者の作品は、世界で最も高く評価されるブラジル映画だと言える。アメリカ映画界に魅せられた彼は文学作品の映画化に携わった。このジャンルの最大傑作が1984年の「蜘蛛女のキス(O Beijo da Mulher Aranha)」であり、米国人俳優ウィリアム・ハート(William Hurt)が最優秀男優としてオスカー賞を獲得した。
ネウソン・ペレイラ・ドス・サントス(Nelson Pereira dos Santos)監督 代表作:リオ40度(Rio 40°)・1955年
ブラジル近代映画の父。1928年にサンパウロで生まれ、シネクラブ活動に参加したネウソン・ペレイラ・ドス・サントス(Nelson Pereira dos Santos)監督はホドウフォ・ナンニ(Rodolfo Nanni)監督の「オ・サシー(O Saci)」(1951〜1953年)の助監督として映画制作活動にデビューした。1953年にリオデジャネイロに移住し、アレキス・ヴィアニ(Alex Viany)監督の「アグリャ・ノ・パリェイロ(Agulha no Palheiro)」、パウロ・ヴァンデルレイ(Paulo Wanderley)監督の「バランサ・マス・ナンゥ・カイ(Balanca Mas Nao Cai)」の制作に助監督として参加し、撮影を完了させた。1954年から1955年にかけて撮影した彼の最初の長編作品である「リオ40度(Rio 40°)」はネオリアリズム調を前面に出した都市生活の描写であり、この技法はその後のシネマノ・ヴォ(CinemaNovo)運動を担った世代の映画人たちを特徴付けた。
当初は同じ路線の三部作の第一作となる構想だったが、1957年に撮った第二作の「リオ・ゾナ・ノルチ(Rio Zona Norte)」でこの連作は終わった。
1957年から1960年にかけては新聞記者として活動し、作家グラシリアノ・ハモス(Graciliano Ramos)の小説「ヴィダス・セカス(Vidas Secas)」を映画化しようと試みたが、ロケ地の洪水を含む一連のアクシデントによって実現できなかった。その代わりにバイア州の農村部でブラジル風西部劇「マンダカル・ヴェルメリョ(Mandacaru Vermelho)」(1960年)を撮り、ここでは彼自身が俳優として主役をつとめた。「ヴィダス・セカス(Vidas Secas)」が完成したのは三年後で、それに先立ってネウソン・ホドリゲス(Nelson Rodrigues)自身の脚色による「オ・ボカ・ジ・オウロ(O Boca de Ouro)」(1962年)を発表した。
「エル・フスティセロ(El Justicero)」では、リオデジャネイロ市の郊外やブラジル北東部の半乾燥原野であるカアティンガ(Caatinga)の風景を同じリオデジャネイロ市都心部の軽薄な景観と入れ替えている。次の作品である「愛の飢餓(Fome de Amor)」では、登場人物は引き続きブルジョアだが、より批判的かつ近代的な視点から捉えている。文豪たちの作品を題材とした一連の映画もある。例えばマシャド・デ・アシス(Machado de Assis)からインスピレーションを得た1969年の「アジロ・ムイト・ロウコ(Azyllo Muito Louco)」、ジョルジェ・アマド(Jorge Amado)を題材にした1977年の「奇跡のテント(Tenda dos Milagres)」と1986年の「ジュビアバ(Jubiaba)」、グラシリアノ・ハモス(Graciliano Ramos)を活かした1983年の「獄中記(Memorias do Carcere)」、ギマランェス・ホザ(Guimaraes Rosa)から出た1993年の「三番目の川岸(A Terceira Margem do Rio)」等がある。十五世紀にブラジルで発生した史実を取り扱った1970年のコメディータッチの試作「コモ・エラ・ゴストゾ・オ・メウ・フランセス(Como Era Gostoso o Meu Frances)」、更には大都市郊外の雰囲気に回帰した1974年の「オグンの御守(O Amuleto de Ogum)」が彼の作品リストに加えられる。
監督作品:
2005年 ダーク・ウォーター(Dark Water)
2004年 モーターサイクル・ダイアリーズ (Diarios da Motocicleta)
2001年 ビハインド・ザ・サン(Abril Despedacado)
1999年 アダム、地の子等(Adao ou Somos Todos Filhos da Terra) (短編)
1998年 最初の日(O Primeiro Dia)
1998年 セントラルステーション(Central do Brasil)
1995年 高貴な助け(Socorro Nobre)(短編)
1995年 外地(Terra Estrangeira)
1991年 偉大なる芸術(A Grande Arte)
1985年 痕跡の詩人(Krajcberg ? O Poeta dos Vestigios)